2021年5月22日土曜日。東京は梅雨曇り。
先日、相談を受けた。
我が家では病気になった母が治療のために遠方から訪れ同居している。半年以上同居しているが、ここ数日で特に末の子どもと母親の仲が悪くなってしまった。フルタイムの共働きで帰りも遅く、上の子たちと違って部活もないため末の子どもは私の母とずーっと一緒にいる。子どもからすると祖母にあたるわけで、とても懐いてはいたのだけれども、いかんせん病気や遠方に残してきた父のことなど肉体的にも精神的にも疲弊した母と子どもの間でギスギスとし始めてしまった。そこで、母には姉の家へ移ってもらった。姉は私の子どもを躾ができていないと批判するけれども、一方で姉は母といることが耐えきれないためもう私のもとへ返したいという。私はこの件については誰も悪くないと思う。母も心身ともにしんどいと思う。うちの子もなかなか辛い立場にあったと思う。健康な人同士であっても、一緒に暮らすということは大変だ。私の姉でさえ母に嫌気がさしている。それを差し置いて、「子どもなのだから嫌だという気持ちを持ってはいけない」などと理不尽なことは言えない。親として大人として、子どもになかなか辛い目に合わせてしまったと思う。
以上のようなご相談だった。
このお話を伺ってまず思ったことは、「あぁ世の中は優しくなったなぁ。前進したなぁ。」ということであった。
前近代の封建社会であれば、このような場合子どもが人身御供にされ、その母親も責任を取らされ、善悪整理、問題解決となるところだったと思う。
しかし時代は変わり、子どもの気持ちが汲まれるようになった。
素晴らしいことである。
さて、それで私が次に気にかけているのは、このお子さんの今の精神状態である。
もしかすると、きっと、自分が不甲斐ない人間だと自己嫌悪に陥っているかもしれない。
虐待を受けてきた子どもたちというのは得てして自分が悪かったと思い悩んでいるものだ。
しかし、そうではない。
大人と子どもという圧倒的な力関係の中で、子どもはお前が悪いのだと洗脳され虐げられている。
一番弱い者に有無を言わさず責任転嫁をする。
その弱き者に責任を背負わせ責任を追及し糾弾すれば周りの大人は誰も傷付かず丸くおさまるわけである。
生贄をリンチする。エタヒニン制度の論理である。
子どもには、そして以前は子どもであったすべての人に、今でも親に引け目を感じている人に、これを知って欲しい。
今でも自分が悪かったと思っているかもしれないけれども、そうとしか思えないように話の流れが構築されてしまっているかもしれないけれども、真実はそうではないかもしれない。
自分を責めずに、洗脳をといて、とにかく自分の幸せを掴みとって握りしめてほしい。
自分が幸せになることを許してほしい。
ゆるそう!
これを読んでるあなたは絶対に素晴らしい人だから!
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