ある日のこと、私はインドにいた。
インド滞在数日か数週間かそれくらいして、いわばインド人とは〜っという巷にあふれるインド人論的な噂話と私自身が肌で感じるインド人像が最適化されつつある頃だった。
ふと、思ったのである。
日本では時折、「インド人は掛け算九九を20×20くらいまで余裕で覚えている。数学に長け、ITにめっぽう強いのだ。」といった言葉を聞くわけで、私も時には知ったような顔でそういったインド人像を人にひけらかしていたものだった。
しかし。
実際のインド人とはどうであるか。
いやはや。
たしかに、私はすべてのインド人を知ったわけではない。すさまじい人たちもたくさんいるだろう。
しかぁ〜っし!
大多数のインド人は掛け算九九ですら怪しいのではないか..
つまり、「全インド人の数学的能力はすさまじいのである。」っというあれは..
あれは神話だ。
私はそう結論づけた。
時は流れ、私はパートナーとのリレーションシップにおいて、「人と比べられる」という悩みを抱えていた。
具体的には、お母さん、兄弟姉妹、どこぞの奥さんetcである。
あなたも一度は経験されたことがあるのではないだろうか。
私は初め、比べられた相手よりも上手くできるようになろうと必死であった。あるいは自分の勝った点で相手を打ち負かそうと必死であった。
そしてその方法では、堂々巡り、挫折感に打ちのめされるばかりであった。
そんなある時、比較対象の実物と接してみて、気がついた。
あぁ神話だわ。
そう。神話なのである。
お義母さんだったらあっという間に最強うまいメシをつくってくれるっとか、〇〇さん家の奥さんは超絶美人らしくて普通に考えて奥さんたるもの何もかも旦那のお世話してるはずだっとか、そんなのは全部神話である。
私は神話に苦しめられていたのだ。
もちろん、お義母さんなら手際よく美味しい料理を作れるだろう。
〇〇さん家の奥さんはちょっと美人で旦那のお世話項目が多いかもしれない。
しかしだ。お義母さんの主婦歴って私の人生よりも長いではないか。〇〇さん家の奥さんが美人らしいってのは噂話でしかないし、その噂話って、ヨイショ上手な後輩が〇〇さんをヨイショしようとここぞとばかりにみんなの前で繰り出した必殺技にすぎない。
お義母さんは自分を殺して家族のためだけに生きる魔法使いではないし、〇〇さん家の奥さんが浮世離れした絶世の美女でめちゃんこ甲斐甲斐しいなんてありえない。だってそんなのって相手にとって都合の良い話でしかない。そんなことはありえないし、あってはならない。自分を大切にする権利を軽んじればそれは奴隷の肯定へとつながるヨ。
っというか、難しい話はさておき、偶像はファンタジーだ。
誰だって良いところも悪いところもある。
上手くできることもあれば、苦手なこともある。
普通の人間だ。あらゆる人は普通の人間なのである。
非の打ち所のない人など、もはやそれは神だ。
大切な誰かのために何もかも捧げたいと志し、同時に自分を大切にしなければ/したいとも悩む、その間で右往左往している。それが人間だ。
上手くできないところばかりに目を向けて、日々挫折感に押しつぶされていたとしても、本当はみんなそんなもんだし、上手くできてること/頑張ってることがたくさんあるのである。
ま。長く(熱くw)なりましたが、要するに、私が言いたいことは、
他人と比べられたら、あるいは自主的に比べてしまったら、こう切捨てましょう。
あ。それ神話だわ。ファンタジー。
ちなみにこれ、認知を変えるという意味で立派な心理療法じゃないでしょか。
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