滅私奉公という恐ろしい言葉

  

 

今は昔、滅私奉公というそぉりぃやぁ恐ろしい言葉があった。

近頃は「利他の精神が〜」なぁ〜んて流行ってるが、皮をむきゃぁこれが核心だと思う。

いや、もちろんそれだけってこともないのだろうけども。

他人を思いやる精神は素晴らしいのだけれども。

だけども、覚えておきたい。

私が幼い頃、若い頃は、仕事場といえば戦々恐々とした部分のある場所だった。

仕事場はカッコ良くて憧れの場であると同時に、殺伐とした場でもあった。

颯爽と仕事する先輩方はカッコ良く見えたものだが、、

多少なりとも、「お前なんか生きてちゃいけない」くらいの罵詈雑言を吐き掛けられる場ではあった。

目があっただけでやられるんだ。

「話す時、聞く時は人の目を見る」なぁ〜んテェのは西洋文化で、こちとら日本人ってのは本来、目上の人間の顔なんざぁみちゃぁいけねェのよ。オイシャベリカタドシタ

それは家の中でもそうだ。

大人は、子どもが泣けば怒鳴り散らしてどついて引っ叩いて張り倒した。

子どもにとってはどんなに理不尽な理由であれ、だ。

心理学的な話になるが、やはり、説き伏せるよりも怒鳴ることや暴力は相手に対する効力が大きい。そのために、使用している側は濫用、依存していく。

特に私の素地はど田舎男尊女卑の封建社会にあるため、「言ってわからない奴は動物と同じだ。叩かないとわからない。」などと言って、時にはベルトや棒切れその他諸々で躾と称する、まさしく愛の鞭が加えられた苦笑。

まぁこういう非常におどろおどろしい世界があったことは忘れてはならないと思う。

そういう時代にあったのが、この滅私奉公というそらぁ恐ろしい言葉だ。

翻って、今日、その意味であの頃よりは格段に世界は優しくなったと思う。

コンプライアンス、コンプライアンス言って、結局若手を育てられないぞ!なぁんて声もある。し、それは事実でもある。

しかし、格段に人々が自制心を身につけてきた面は否めない。

 

とまぁ大世界を論じる話はさておき、

この滅私奉公は日常でも注意を払わなければならない点である。

ボォ〜っとしてると自分の幸せは誰かに奪われてしまう。

滅私奉公などというものなどをしてはならぬ。

理論的に言って、全ての人間が自分で自分の幸せ(少しの居場所)を確保すれば、全ての人間は幸せになれるのだ。

他人のために尽くして、結局誰も幸せにならない方向に進んではならぬ。

それは、近しい家族、パートナーであってもだ。

滅私奉公しない強さに!乾杯!

シェアしてくーださいっ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください