「障害があっても」とか「いつか治る」とか、ではなく。

 

 

こんにちは。

今日は天気がいい。

とても暖かい。

昨日、日曜日は今日より暖かく汗ばむほどでした。

街中、お花の香りがして春ですね〜っという感じ。

嬉しいです。

 

そんな日曜日、私は録画のテレビを観ていました。

番組中、自分の子どもがある日、熱からの発作で突然脳に関係した障害になったというご家族のお話が出てきました。

正直に言って、こういう話はドキッとしますね。

自分の身にもいつ起こるか分かりません。

 

それで、思い出したことがあるので、今日はここに書いておこうと思います。

 

一時期、様々な障害について勉強していた時、ふと気がつきました。

無意識のうちに、治療方法だとか、あるいは正直に言えば、治療法というのは半ばないと諦めて、その上で障害を持つ場合でも社会で意義を発揮できる可能性を探している自分がいました。

例えば、自閉症では刺激の少ない環境での反復動作が好まれやすい。そう言ったことから最近はトイレや窓ガラスなどの掃除がとっても得意だということが見出され社会で活躍している!といった道筋を無理くり探していました。

それで安心できる自分がいた。正当化できる自分がいた。

 

でも、あるとき思い至りました。

どうしてそんなふうに意味を求めるの?別に存在するだけでその人の存在は認められるんじゃないの?いるだけでいいんじゃないの?と。

障害がある人は存在意義を見出さなければ存在を否定されてしまうという無意識の前提が私にはあった。 

もちろん、ご飯食べるって大変なことで、現実は甘くない。

でも、「いつか治ると信じて」とか「障害者も社会の役に立っている」とかそういう以前に、どんな人もそのままの存在で素晴らしいし、存在するだけで素晴らしいと思う。

  

 

小さな時から、私は障害を持つ子を庇う事が多かった。

電車の中でブツブツ何か喋っている(自閉症と思われる)方は後ろ指を刺されて、ヘラヘラチャラチャラ生きてる奴が大きな顔で権利を主張する。

それって本当におかしいと思う。

だから私は障害を持つ子を邪険にする学校の先生に、「あんた馬鹿?勉強足りてねんじゃねーの?」としょっちゅう突っかかった。周囲からは自分が頭がいいことを鼻にかけていると揶揄された。多数決では私が少数派というのが現実。

障害は自分ではどうすることもできない、なのにそれを人は馬鹿にする。

勉強不足は自分のせい、なのにそれを馬鹿にすると嫌な奴だと揶揄される。

おかしな世界だ。でもこれが現実だ。

  

ということを、公園でうちの子どもがダウン症のお友達と遊んでいたっけなぁっと思い浮かべながら思った。

お互いに言葉が巧みな歳ではなかったけれど、なんとなく挨拶を交わして、隣同士で石を集めてベンチに乗せて、なんだか真剣に、時々ボーッと、ニコニコ、遊んでいた。

うちの子は、手を振っても挨拶を返してくれない(=存在を認めてもらえないと判断して?)場合はあまり近づかない子だった。

お互いに、存在を認め合っていた。

それだけで充分だった。

 

とても暖かな日だった。